みなとぴあに行ってきた

中国旅行の日記とは、別件で、

 

今日は、新潟市歴史博物館・みなとぴあに行ってきた。

私は生まれも育ちも新潟市(合併前は別の町であったが)でありながら、一度も行ったことがなかった。信濃川をはさんで向かい側にある朱鷺メッセ佐渡汽船乗り場にはバイトや部活の合宿などで度々足を運んでいたし、みなとぴあというものがあることは知っていたがなかなか訪れる機会はなかった。

あと1週間ほどで新潟を離れて働くことになるので、せっかく天気もいいし行ってみるかという気になったのだ。

 

みなとぴあには、他にも旧新潟税関庁舎や旧第四銀行支店を利用したカフェなどが併設されており、新潟市の観光地(?)の一つになっている。

はっきり言って人も少ないし、小さい外見からはたいして見るものもなさそうだが、天気のいい日に散歩がてら信濃川新潟市の風景を見るついでに来るには悪くないところである。まぁつまり私としては、博物館だけ見るために訪れるほど魅力がないように思えた。それよりも信濃川朱鷺メッセ、万代橋など景色を見るほうが有意義だと思った。

 

そんな小さな博物館であるが、新潟市に住んでいたものとしてはなかなか興味深いものもあった。

 

例えば、明治時代、古町に堀があった頃の地図。

父親からかつては古町の西堀には堀があり、1964年の新潟国体開催に向けて堀が埋められたと聞いたことがあったが、明治初期にはここまで堀が張り巡らせれていたとは想像していなかった。

 

一番堀が多い明治8年の新潟港の様子(新潟市歴史博物館)

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さすが水の都と自称するだけあるな。これを残していればベネチアアムステルダムのような運河のある素敵な観光都市になったのでは!と思った矢先、干上がったように水が少ない堀や多くのゴミが捨てられた水路があるかつての古町の写真があり、あーこれは埋め立てても仕方が無かったのかもしれないと思ったのと同時に、ベネチアアムステルダムなどの都市が美しい景観を維持するためにどれほど苦労しているのかも考えさせられた。

 

そして、もう一つ非常に興味深かったのは、新潟が原爆投下の候補地であったところ示すアメリカ軍の指令書

新潟が原爆の候補地であったということは聞いたことがあり、インターネットでもこの情報を確認することができるが、この文書は始めてみた。

作成日付は1945年7月25日。

対象都市は、広島、小倉、新潟、長崎。冒頭で、8月3日以降、爆撃可能な天候であれば以上の都市の1つに特殊爆弾を投下すると示されている。

もし仮に新潟の天候がよかったら・・・私どころか私の両親さえ生まれることなく新潟市は全く別の道を歩んでいくことになったのであろう。

ただ健康に新潟の街を歩けることがどれほど素晴らしいことに思えた。

 

原爆投下候補地を示した米国軍の文書(新潟市歴史博物館)

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この指令書を受け、広島、長崎が原爆投下された後の8月10日、新潟市は原爆の投下の危険性から市民に対して緊急退避令を発令している。

そのため、15日の終戦時には新潟市はほとんど無人だったらしい。

実際にはどんな様子だったのか。新潟市の終戦時を知る方にぜひお話を聞いてみたい。

原爆投下を受けての緊急退避令(新潟市歴史博物館)

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